あれこれ所感

ひまつぶし

死生観

 

 人が最期を遂げたのち、その意識とか魂とやらは?残ったこの世はどう動くのか?還暦を迎え、改めて考える。

 

 死については、20代後半頃から重い病を患っていたわけでも無いのに、その手の関連書籍を読み漁っていた。今、思い返せばそれだけ”死”に対する畏怖の念が強かったのだろうか、「いつ死んでも構わない」と強がっている己に鎧を纏おうとしていたのか?今になっては知る由もないが。

 

 身近な者の死は人より多く体感してきた。一報を聞いたときこそ、ありきたりな驚きと少々の感傷に浸るが、そこに自分を投影することもない。それらの経験から得たものは、通夜、葬儀の段取に長けてきたのと、少しだけの悲哀。そんな上っ面を俯瞰しているだけ。


 そして、ものの1週間もすれば儚さも寂しさも徐々にフェードアウトし、時折思い出してはすぐに現実に戻る。その人が居ない世界と向き合わざるを得ず、やがてそれが当たり前の世の中を生き、酒を喰らい人との出会いや創造物に心を揺らす。

 

 つまり、死とは有象無象の中、ひとりの物語が消え失せるだけであり、心配しなくとも世の中は廻って行く。一番大きく失うものは己の未練だけ。
あれこれ考えるほど大層なものではなく、誰かが口にして大バッシングを受けたが、近親者を除けば世間の大勢はペットの命の方が大変なのだ。

 

 結果。命の終わりと共に自分も消える。輪廻転生があるとするならば記憶の消え失せた肉体は自分では無いので、全ては終わる。